ヒルティの教育論1

書店に並ぶ新しい教育書は、テクニックについて書かれていても、その目指すところがはあまり書かれていません。おそらく、「目標=経済的成功」というのを自明の理としているのでしょうが、目標が逆なら方法も逆になるのを知らないかのようです。
経済的成功が目標の親は、必然的に、過程よりは成果を、中身よりは外見を、誠実な努力よりは数値を求め、人間的・精神的な成長が目標の親は、その逆を求めます(両方を求める親は何一つ得ません)。そして、後者の親のための本は、書店にはほとんどありません。
そういうわけで、後者のような親の一助となるように、カール・ヒルティ(1833 - 1909)の著作から、ヒルティが教育について言及している箇所を抜粋して紹介したいと思います。
目的をはっきりさせること・断固たること
しかし、人生で肝心なことは、正しいことを知ることではなくて、正しいことを行うことでなければなりません。そしてそのためには教育の場合つぎのことが必要です、すなわち、まず教育の目的をはっきりさせること、その上でこの目的を追求するにあたって断固たること、これです。言葉をかえていえば、あなたはまず、お子さまたちをどんな人間にするおつもりか、それがお分かりになっていなければいけません。それによって、あとのことは、きまってくるのです。つまり、いわゆる「有力者」、教養をもった上流の成功者にしたいのか、それとも高貴で善良で誠実な人間にそだてたいのか、どちらかということです。
『ヒルティ著作集6』 秋山英夫訳 (白水社)p.13
親の価値観、人生の目標が、そのまま子どもへの教育方針になり、子どもの日々の勉強の方法になります。自分の立ち位置を、一度はっきりさせないといけません。
一方には、利己的な自己保存欲と、短い生涯にできるだけ官能的享楽をむさぼろうとする立場があり、他方には、人間愛、他人のための配慮、精神の高揚、また、より高貴な魂の諸力の完成を求める立場がある。この両者こそ、今やまもなく戦闘準備をととのえて相対峙しようとする二大陣営である。諸君もそのいずれかの陣営に参加せざるをえないであろう。
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作訳 (岩波文庫)pp.156-157
すなわち、すべて教育は一定の根本思想から出発しなければならないこと、従って当然、人生の究極目的を問題にすべきであって、単に目下のところ到達出来るような目標を注目するだけでは足らないということです。しかるに目前の目的しか見ないということこそ、われわれの今日の学校教育の欠陥にほかなりません。
『ヒルティ著作集6』 秋山英夫訳 (白水社)p.23
聖書に「滅びにいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者は多し。生命にいたる門は狭く、その路は細く、これを見出すものは少なし。」という言葉がありますが、中学受験でもまさに同じことが言えます。
教育の任務
教育が、若い人々の心に理想を求める精神を植えつけ、なお、若干の良い生活習慣を身につけさせ、あらゆる卑俗なものに対する嫌悪の心を養わせることに成功すれば、それで教育はその最も本質的な任務を果たしたことになる。現代の教育はそれ以上のことを望んでいるが、実際になしえたところははるかにそれ以下である。
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作訳 (岩波文庫)p.299
人間がその身体で、善と真とを健康に益あるものとして感じ、反対に悪や偽りや不純を、それがたとえどんなに美しい姿のものであっても、気づまりや不健康なものとして感じるようになったとき初めて、その人はまさにあるべき通りの人間に、また最良の場合にありうる通りの人間になったのである。
『眠られぬ夜のために(第一部)』 ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳 (岩波文庫)p.130
今日上流社会で考えられている以上に、人生の幸福は、われわれの心を暖め、われわれの精神に活をいれてくれる偉大な思想と活動にあります。それ以外はすべて空です。・・・たとえ全世界を獲ようとも、もしわれわれが片時もはなさずに持っている自分自身のたましいを軽蔑しなければならなくなったり、あるいは悪賢く考えて、たましいを嫌悪する破目にさえおちいるようであっては、それが何の役にたちましょうか。
『ヒルティ著作集6』 秋山英夫訳 (白水社)p.16
時間がいること
次に学ぶべきことは、すべてのものは成長するのに時間がいるということである。あまりに進み方が早すぎたものは二度も三度もやり返さねばならず、結局、一番長くかかることになる。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書三の一一)。ただ人間だけがいつもせかせかと急ぐ。
『眠られぬ夜のために(第一部)』 ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳 (岩波文庫)p.244
人間の最もよい性質は、ただゆっくりと、しかも多くの忍耐によって初めて、伸びゆくものであり、また悪や利己心はなかなか急には退散しないものである。そこでわれわれが、人間を相手にして、彼らを助けて進歩させようとするとき、ほとんど超人的な忍耐を持っていなければならない。もしもある人が、自分だけの衝動から事を行ってなに一つ成功しないなら、それは神の特にはかり知れない恩寵なのである。
『眠られぬ夜のために(第二部)』 ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳 (岩波文庫)p.183
家庭で子どもの勉強を見るなら、まさに「超絶的な忍耐」が必要です。あなたが子どもに対して「超絶的な忍耐」を持ちたいなら、子どもに対する自分の意図と計画を、まず放棄しなければいけません。
これは決して忘れてはならないことですが、教育には忍耐が必要です。教育にはこれから先、特別の魔術や促進術が発明されるということはありませんし、一見そうしたものがあるように見えても、かならず仇をうたれます。長い年月のあいだ、ねばりと希望をもって、われわれは果実を待たなければなりません。
『ヒルティ著作集6』 秋山英夫訳 (白水社)p.29
「時短」と効率は、精神に関わらない物質的な事柄には有効ですが、精神的で価値あるものを生み出すことはできません。今後も、科学的教育を謳って、子どもの知性を簡単に伸ばせるような幻想を抱かせる本が出版されるでしょうが、家庭の1対1対の教育には最もそぐいません。
人生のそれぞれの時期は固有の価値をもつこと・飛び越えないこと
したがって、人生のそれぞれの時期は、その時代に固有の成果を蓄積して、これをその人格のなかに残さなくてはならない。子供の時代は子供らしい無邪気さを残すべきであり、これなしには誰でも、他人にいい影響を与えるような完全な人間とはなりえない。また、青年時代は、活動力を生み出すような新鮮さと、精神の高揚とを残さねばならない。
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作訳 (岩波文庫)p.284
というわけは、人生のおのおのの時期が、それぞれの目的と任務を持つからである。春には、木はなによりもまず成長して、おわりに花を咲かせなければならないが、しかし、春の内にすでに実を結んではならない。
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作訳 (岩波文庫)p.284
このような時期のどれか一つを飛び越えたり、また、一層ありがちのことだが、慌てすぎてその時期の特質を十分に利用しないものは、あとからそれをとり戻そうとしても、それはめったに出来ないこと、いや、絶対に不可能なことだと言ってよい。そういう人は常に、その人柄全体に、ひと目でそれとわかる欠陥をとどめているものである。
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作訳 (岩波文庫)p.285
たとえ中学受験をするとしても、子供らしい、小学生らしい生活を犠牲にしてはいけません。
人には変えられない核があること
それはそうと、奥様、私が上に申し述べたこと、今から申しあげることの如何にかかわらず、いかに原理が正しくとも、またいかにあなたが苦労なさいましょうとも、教育は時に全面的に不成功に終ることがあるということ、あるいは少なくとも、お考えになっていた筋書どおりの結果が出ないこともあるということを覚悟なさっていらっしゃる必要があります。そこで当てちがいにならないですむためには、どんな人間にも、一種謎めいた素質の核があるということ、あるいはあなたのお望みのことばでいえば、謎めいた運命が支配していて、甲の人には万事がやすやすとはこぶのに、乙の人にはどんなに細心に骨折って教育してみても、そこまでは行けないということがあることを見誤ってはなりません。
『ヒルティ著作集6』 秋山英夫訳 (白水社)pp.21-22
たとえ親と子といっても、肉体的な遺伝があるだけで、精神的には自分とは全く異なる1人の個人であることを覚悟しないといけません。親の教育が全く焼け石に水に終わったとしても、それは仕方のないことです。
一般に性格を完全にかえるということは、できない相談です。少なくとも、そういうことをすれば、かならず害があります。むしろその性質を高めて、その欠点そのものがそれに一番近い徳にかわるように、試みるべきです。
『ヒルティ著作集6』 秋山英夫訳 (白水社)p.29
だれでも、その生まれつきの気質をすっかり変えてしまうことをなど、出来るものではない。むしろその特質をそのまま純化することの方が、はるかに容易である。つまり、粘液質のひとは英知の気高い落ち着きに達し、活潑な人は他人のための犠牲的活動に赴き、また胆汁質の人はあらゆる偉大なものを力づよく保護することができるようになる。こうした天性を誤って判断したり、またそれを打ち毀そうと試みたりすると、たいてい中途半端の気の毒な状態で終わることになる、さもなければ、そうした素質から何か完全なものが出来あがったであろうのに。
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作訳 (岩波文庫)p.97
何事も非常に丁寧でゆっくりな子どももいれば、雑で大雑把な子どももいます。こういった人間の核に当たる部分は、直したりすっかり入れ替えたりすることはできません。
丁寧でゆっくりな子どもは独創的で創造的です。雑で大雑把な子どもは社交的で包容力があります。自分の理想を押し付けることなく、子どもの特性に応じて、その特性を良い方向に伸ばしてあげるのが、賢明な親というものです。
人を幸福にしようと思えば、その人自身が借りものでない自分の本質的基盤から幸福でありうるように導いて行かねばなりません。
『ヒルティ著作集6』 秋山英夫訳 (白水社)p.33
例えば親の命令で、医者になるような資質が全くないような子どもが医者になったとしても、その子は間違いなく不幸になります。親の手が完全に離れてから、その子はもう一度人生を始めからやり直すことになるでしょう。
教育には芸術家的天性が必要であること
ですから奥様、あなたは教育を科学としてではなく、何のためらいもなく、一種の芸術とみられてさしつかえありません。このことは、すべて有能な教育者がおしなべて学者ではなく、芸術家的天性の持ち主であったという実例が証明しているばかりではありません。比較的高級な動物を育てる場合から類推しても分かることです。
『ヒルティ著作集6』 秋山英夫訳 (白水社)p.12
「芸術家的天性」とは、精神的な感受性のことです。精神的な感受性がある親は、子どもが一生懸命勉強していたら、その結果宿題が数問しかできていなくても、テストの点数が悪くても、あまり気にしないでしょう。そうして、子どもの中で育ちつつある目に見えない学力を、才能を、長い目で、大切に育てる事ができるでしょう。
これに対し、精神的感受性に欠ける親は、勉強の成果やテストの点数ばかり見て、子どもの目が死んでいるのにも気づかないでしょう。